区民の皆様への医療情報

平成12年4月号 江戸時代、日本で発刊された「解体新書」

天皇陛下のお書きになられた文章の一部から

『解体新書』の刊行はその後の日本の科学の発展に大きな意義を有するものであった。

その第一は、それまで日本の医者が学んできた中国の医書の誤りを、実地の解割とオランダの医書を通して、明確に示したことである。
本でなく実物から学ぶことの重要性が強調されたのである。
『解体新書』には、過去に人体を解割して調べた人も、頭がすっかり旧来の観念に染まっていたため、実際の内臓や骨格の構造と、それまでの説とが相違しているのを眼で見ながらも、その事実を信じきれずにいたこと、それゆえ、自分の中の古いものを捨てて面目を一新した者でなければ、新しい医学の世界に踏みこむことは出来ないということが書かれている。

第二は、オランダ語の医書を江戸の医者が集まって翻訳したことである。
『菌学事始』によれば、良沢はそれまでオランダ語の本を読みたいとの志はもっていたが、同志がなくてまだ踏み切れなかった。
したがって、江戸において志を同じくする人々が集まって行われた『解体新書』の翻訳事業は、多くの菌学者がそこから育つ機会を作り、その後の蘭学、ヨーロッパ医学の発展に大きく寄与することとなった。

第三は、玄白が『解体新書』の翻訳の目的を、古来の説との相違を明らかにし、治療を助け、また、世の医者が種々の医術を発明する際に役立てたいという社会への寄与に置いていたことである。
したがって、翻訳を急いで早く一般に見られるものにしたいというのが玄白の願いであった。この点で翻訳の正確さを重視した良沢とは異なっていたが、『解体新書』は両者がうまく助け合った結果として刊行されたのである。
玄白のこのような考え方は当時の医術が何々流と称し、それぞれの持つ医術を秘伝としてごく限られた人々にのみ伝えていく、という考え方とも異なったものであった。

さらに、玄白には、日本人ばかりでなく中国の人にも役立ちたいという気持ちがあった。『解体新書』は、当峙の教育のある日本人が読んでいた漢文で書かれており、実際に中国で読まれたかどうかは分からないが、この翻訳で、オランダ語から新たに作られた「神経」などの漢語は、現在日本でも中国でも使れている。
真埋の下での世界共通の医術の向上を考えていたことが感じられる。

八十歳を越えた玄白が過去を振り返りつつ記した『蘭学事始』の終わりに、『解体新書』の翻訳を一滴の油を広い池に垂らした様にたとえ、蘭学が四方に行き渡り、年々翻訳書も出るようになったことに深い喜ぴを表し、それを国内の大平のおかげと記している。

玄白はこのように日本の医学、さらに菌学の発展に大きな貢敵をした。
しかし、その貢献は啓蒙的役割であって、玄白白身の医学的業績が日本の医学に貢献したわけではない。
自分白身の研究を通して日本の医学を向上させ、治療によって人々を助けた人としては産科医の賀川玄悦があげられる。

玄悦は1700年の生まれで、玄白より三十三歳年長であった。
玄悦は京郡で、古銅鉄器を商い、按摩鍼術を施して生活を助けながら医学を学んだが、特別の師はながったといわれている。
オランダ語は読めなかったが、オランダの医書を参照し、中国の医書も読んでいる。しかし、玄悦が重視したのは、自ら試みてその日で確かめ手指で確認したものである。
玄悦の業績としてあげられるのは、鉄釣を用いて胎児を挽出する方法を考案したことである。
難産で胎児が死亡している場合、母体を救うために行われた手術で、それまでは死を待つのみであった母体を救うことができるようになった。

玄悦は『産論』を1766年に出版している。その中に、胎児は母体の中では頭を下にしているということが記されているが、このことは玄悦自身が見いだした事である。
『解体新書」は、『産論』の出版から十年近く経って出版されたのであるが、その中で玄白は、この玄悦の説について次の様なことを記している。

自分はこの説が古末の説と異なっているので疑いを持ち、オランダの解剖の諸本を見たところ、胎児の頭の位置についての説明はなく、胎児の頭は上を向いたり横を向いたり下を向いたりしていて一定していない。
ところが、近ごろ英国の産科の本を見ると、言葉は分からないが、図に示されている胎児は頭を下にしており、その状態でないものは皆難産の状態であった。
この英国の本に示された正常な胎児の頭の位置は玄悦の説と一致しているので自分が初め玄悦の説を疑ったことは誤りであったことが分かった。

玄白はこのように玄悦の業績の正しさを評価し、玄悦の説についての言及の終わりに、自分が見ていないところのものを簡単に疑ったことへの反省を述べている。玄白の真実をひたすら求める謙虚さに深く感銘する。

玄白と玄悦の二人に共通しているのは、人々ヘの愛である。玄白が『解体新書』を翻訳した動機が、医学の向上により人を救うことにあったように、玄悦も隣家の主婦の難産を救うために、死んだ胎児を挽きだす方法を考案してその主婦を救ったことから、産科の道に入った。「天地のめぐみにかなふ我が道につとめて人を救ひ給へや」という玄悦の遺訓の歌にもその心が示されている。また、七十歳に近い玄白は『形影夜話』の中で、次のような意味のことを記している。

「白分に託された患者があれば、白分の妻子が患っているように思い、深く考えて親切に治療しなければならない。たとえどんな貧賎な者でも、高官富豪の人でも、治療は回じように心得、決して区別してはいけない。」

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