区民の皆様への医療情報

平成12年3月号 故郷への想い

故郷への想い 岡原直美(34才主婦)

第十七回「心に残る医療」入選作作品集・介護特別賞

義父が倒れたのは、1996年11月18日の夜のことでした。

宮崎県の山間地で、兼業農家として生活をしていた主人の両親と、一か月後に、挙式を控えた妹との三人暮らし……。
当時、大分県に住む私たちは、その妹から、突然の知らせを受けました。

脳内出血により緊急手術を行い、一命を取り留めたものの、数日後には、肺炎を併発、気管切開を施され、鼻からの流動食、それに、ほとんど自発運動の出来ない体となってしまいました。
意志の疎通も図れないまま、時折、乳児のような笑顔を見せてくれる義父。
そして、これ以上の回復は、ほとんど見込めないという医師の説明に、家族は、がく然としました。

以前から、故郷に安住の地を求めていた私たちは、これを機に同居し一緒に義父を見ていくことを提案してみました。
両親と子供たちとのふれあいや、のんびりとした田舎での生活を思い描き、幾度かの転勤を経験してきた私たちにとって、それは、あこがれでもあり、いつか実現させたい願いでもありました。

しかし、「考えがあまい」その義母の一言で、私たちの"想い"は一蹴されてしまいました。「自分たちのために、今のあなたたちの生活を壊すことはない」と言われ、理想と現実を履き違えていたような気になり、その時の私には、返す言葉がみつかりませんでした。

それから数か月が過ぎても、義父の状態はあまり変化はなく、献身的に介護を続ける義母を、ただ遠くで見守ることしか出来ないことが、一度はあきらめかけていた故郷への想いを、再び強いものにしていきました。

そんな矢先、義父が倒れた翌年の三月のことです。今度は、義母が腹部の激痛を訴え、同じ病院での検査入院となってしまいました。

連絡を受けてから数週間後、その検査結果と詳しい内容を聞くために、主人が帰省、その時、医師から受けた宣告は、あまりにも過酷なものでした。

「悪性腫瘍による腸閉塞、ほかにもたくさんの転移が認められ、今年の夏を越せるかどうかわかりません」。 主人が持ち帰ったその結果を聞いてから、私たちが結論を出すまでに、そう時間は必要ありませんでした。

三月下句、主人は職場の都合により、一年間だけ大分に残ることになり、春休みに入ってすぐに、当時八歳と五歳の息子を連れて、先に実家へ移り住むことを決めました。 それから毎日、病院と実家を往復する生活が始まりました。慣れない土地、そのうえ主人のいない不安。「考えがあまい」という義母の言葉に、何度かくじけそうになりました。 しかし、周りの人々に励まされ、立ち直ることができました。

五月中ごろ、四階の病室では、左腕に残された機能を、徐々に取り戻すため、ゆっくりとした時の流れのなかで、治療を続ける義父の姿がありました。 そして、同じ病院の二階では義母が、一時的に食事が出来るようにと、ふさがった腸のみを切除し、完治を信じ、夫の介護を再開したいと、ただひたすらリハビリに取り組んでいました。

しかし、思いとは裏腹に、自分の体はどんどんむしばまれていきます。どんな思いで日々を過ごしていたのでしょう。 「もう、だめかもしれないね……」 弱音を吐く義母に対して、うそを重ねていくことしか出来ない自分の無力さに、何度も押しつぶされそうになりました。思い描いていた故郷が、少しずつ遠くなっていくのを感じながら、もっと早く帰っていたらと、後悔していた時期でもありました。

数か月間で、幾年もの歳月を重ねたかのように衰弱し、やせ細っていく義母の姿を見ながら、奇跡を信じ、たい気持ちと、早く楽にしてあげたい気持ちとが、繰り返し、繰り返し訪れました。 その度に、四階の義父の病室に駆け込み、声を殺して泣いている私の姿を、義父はどんな思いで見ていたのでしょう。わずかに動く義父の左手に、私のひらを預けると、ぎゅっと握り返してくれるそのぬくもりから、義父の思いが今にも伝わって来るようでした。

そしてこの時、そのぬくもりこそが、私たちが求めていた故郷の温かさだと気づいたのです。

検査入院からわずか五か月あまり、義母は夫の行く末を案じながら、その短い生涯を終えました。

義母が果たせなかった思いを受け継ぎ、私たちに残してくれた思い出を大切にして、これから築き上げていく故郷での生活を、義父と共にゆっくり生きていこうと思っています。

一覧へ戻る

ページトップに戻る

ページトップに戻る