平成12年2月号 ありがとうよっちゃん 私は負けないよ
看護婦として働き始めて十か月目のある日、受け持ちの男子高校生の食事介助が終了した。彼は、座っていた車いすからベッドに戻りたいと合図をした。
彼の車いすは特殊なもので彼の障害や体形に合わせて作られていた。その低い車いすから彼を中腰で抱きかかえた時、急に彼の全身に緊張が走った。それは強くなる一方で、体を反り返し始めた。落としてはいけないと更に強く抱き、自分の体にカを入れた
その時、グギッ。グジユ グジユ グジユ グジユッ。ビッギィーン。表現の出来ないすごい音と共に、私の体に電気が走り火花が散った。何がなんだか分からない。
抱いていた彼をどうにかベッドに戻したが、あまりの痛さに身動きさえ出来ない。徐々に両足がしびれ、感覚が失われていく。立っているのか座っているのかさえ分からない。
誰か助けて……その声さえ出せなかった。
その時、身動きしない私を見ていたのか、よっちゃんが車いすでスーッと寄って来てくれた。
床ばかり見つめている私を下からのぞき込み、心配そうな表情で見つめてくれる。そして大きな手で腰をさすってくれた。
"ありがとう" の一言さえも言えず、ただ歯を食いしばってだれかが来てくれるのを待つしかなかった。気を失いそうになっていた時、よっちゃんはスタッフを引っばって来てくれた。助かった。ありがとう、よっちゃん!
私の勤務していたのは重症心身障害児(者)病練。
そこは、身体的、精神的ともに重度の障害があり、人の手を借りないと生活出来ない人たちの病棟であった。
よっちゃんは十八歳。脳性まひの為、両足は完全にまひしており、立つことも歩くことも出来ない。言葉はしゃべれず、ただ "あ-あ-、う-う-" と声が出せる程度と、両手が多少使えるのみである。あの時もきっと私の動きを見ていたのだろう。そして、いつもとは違う、おかしいと感じ近寄って来てくれた。
また、助けを求めていると察してスタッフを呼んでくれた。私の思いは完全によっちゃんに伝わっていた。
介助をしていた私は、この日から一転して介助される側へと変わったのである。
入退院を繰り返し、二度目の手術も行った。医師からは、「看護婦としての復帰はとんでもない。一生車いすが必要になるかもしれない足のまひは一生残るかもしれない」と告げられた時、悔しくて悔しくて真夜中に何度も涙を流した。
自由に動きまわれる人がうらやましい。動けない自分自身に腹が立つ。みんなの顔をみるのも嫌。これからの事を考えると不安で不安で仕方なく、他人の一言に一喜一憂した。
不安や焦燥にかられ、投げやりになりそうな時、思い出したのはよっちゃんだった。
言いたい事が言える訳でもなく、思うようにも出来ない煩わしさ。
医学界からは脳障害があるとレッテルを張られ、生涯入院生活で自由に外にも出られない。そんな彼らの本当の思いや、心のさけびを私は察することが出来ていただろうか?
みせかけだけの言葉や、きれいごとの態度だけでなく、人間として見て欲しいと思っていたのではないだろうか?
日々の業務に追われ、忙しさにがまけて、目をそらしてきたのではないだろうか?
今までの自分が恥ずかしくなってきた。よっちゃんのぎこちない手のぬくもりを思い起こすたびに、反省とふさぎきった私の心を温かくしてくれるものがあった。
負けていてはいけない。こんな事で負けていてはだめだ。もう一度、看護婦として戻りたい。これから先の私の人生に制限される事はたくさんある。でも、やっぱり看護婦として働きたい。もう一度、看護婦に……。
よっちゃんにお礼が言いたくて、私の体調の良い日に歩行練習を兼ねてその病棟に行ってみた。久し振りにみんなの元気な顔を見た。
腰を痛めた時の高校生は、私の顔を見ると急に目に涙をいっばいため、申し訳なさそうな表情をする。あなたのせいではないのよと言いつつも心のどこかに詰まるものがある。よっちゃんは満面の笑みを浮かべ、はにかむようにして寄って来て再び腰をさすってくれた。
よっちゃん、ありがとう。本当にありがとう。あなたがいてくれたから助かったのよ。そう言うと思わず熱いものが込みあげてきて大粒の涙が落ちた。よっちゃんもそうであった。
言葉はしゃべれなくても、心は通じ合う。
患者も看護婦も同じ人間同士である。生き生きとした看護は、人間同士の感情や心と心のふれあいの中で成り立つように感じた。
よっちゃんのあの手のぬくもりと笑顔を忘れず、自分の仕事に誇りを待ち、いつも前向きで明るく、顔を輝かせて進みたい。
私がよっちやんに出会えてよかったと思っているように、私に出会えてよかったと心から思ってもらえる、そんな看護婦になりたい。
今では、自由に動けるまでに回復した。そんな自分の体を大切にしながら、職場に一日でも早く復帰したいと思っている。