区民の皆様への医療情報

平成11年6月号 脳死移植について私が思うこと

森 亘先生「東大名誉教授 病理学」のお話しから

二月二十三日に始まった脳死にまつわる一連の出来事、そして二十五日夜からの報道は、多くの人々の関心を集めたと同時に、少なからぬ人々のひんしゅくを買った。
理由は、一言でいえば、世を挙げての過熱ぶりということであろうか。この種の報道は今日、する側も受ける側も、まるで事件を扱っているようである。あるいはドラマやプロ・スポーツを見るのとなんら変わりがない。

しかし、医療の間題はそうしたたぐいのものとは、やや違う本質をもっているはずである。
医師の仕事は本来、人に見せるために行われるものでもなければ、楽しませるためのものでもなく、すべてを世に示さなくてはならないほど公的なものでもない。ましてや患者の立場になれば、たとえ人道的に称賛ざれるべき事柄であろうとも、徴に入り細をうがってせんさくされるなど、もってのほかであろう。

脳死体からの臓器移植は、当然ながら、一人の人間の死によって始まる。
何十年かにわたって、いろいろな経験をし、いろいろと考えることもあったであろう一つの生涯が、まさにその最終段階としての死を迎えようとしている時、たとえ意識はなくとも本人には多くの思いがあろうし、周囲にいる家族や友人にも様々の感慨があることだろう。

そこにはだれもが侵してはならない静けさが求められているはずである。
「脳死状態」「臨床的脳死」「法的脳死」など、もっばら自然科学の立場から病気を、死を、ひいては生命というものを追ってきた私にとっては、必ずしも理解できないような言葉がはんらんしているが、脳死の判定とは、とりもなおざず、臨終を告げることにほかならない。その瞬間を前に、遣体から提供されるであろう臓器について、かくもかまびすしく騒ぎ立てるのは、あたかも臨終を迎えようとするまくら元で、遺産の金額や分け方を、親でも兄弟でもない人たちが、ひそひそ声でもなく、鳴り物入りで、囃し立てているようなものである。

このようなことで果たして良いのであろうか。
本来、脳死という概念は臓器移植とは別個のものである。後者の必要があればこそ前者の議論が盛んになったという経緯は存在するものの、それらを改めて論議する際には両者を分けて考えるべきであるとは、かつての「脳死臨調」でも、おおかたの委員が合意したところであった。

臓器提供の意志を示す人々といえども恐らくは、自らと家族にとっての静かな死を他人に踏みにじられることまで許したわけではあるまい。
臓器提供という、このうえない善意を示してくれる人々に対しては、せめてまず、安らかな死を整えて差し上げなくてはならないと思う。だが、こうした配慮は法規のみによって得られるものではなく、社会全体の気持ちにより初めて実現しうるものであろう。情報の開示とかプライバシー保護などといった理屈よりはるか以前の、もっと基本的な、人間のこころの問題である。

移植医たちは、そんなにゆっくりしていたのでは万事間に合わない、とうかもしれない。それならばそれで、そうした準備はひっそりと、決してこっそりとではなく、行われるべきで、静けさを守るために、社会を挙げてあらゆる面での配慮が必要である。
いま世の中では、心のこもった医療といったことが、しきりに言われる。

確かに、そのような考えは必要である。
しかし、心のこもった医療は医師たち、あるいは医療関係者たちだけの努力によって達成できるものでないことは明白である。社会全体がその気にならないかぎり、到底不可能であろう。
なぜ、あのような過熱を招来したのか。それを分析すれば、原因として挙げうるものは幾つもあるだろう。それらの中で一つだけ、私の個人的な考えを申すならば、脳死というものを臓器移植を前提としてのみ認めている、今の法律にも問題がありそうである。

現在の臓器移植法が、「この患者は亡くなりました。では、臓器を頂いてよいかどうか相談しましょう」ではなく、極言すれば「あなたの臓器を待っている人がいるので、この辺りで亡くなっていただきましょうか」といわんばかりの印象を与えるとは、私の曲解であろうか。 五月十二日、その後の脳死移植が行われたのはご承知の通りです。

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