『解体新書』の刊行はその後の日本の科学の発展に大きな意義を有するものであった。
その第一は、それまで日本の医者が学んできた中国の医書の誤りを、実地の解割とオランダの医書を通して、明確に示したことである。
本でなく実物から学ぶことの重要性が強調されたのである。
『解体新書』には、過去に人体を解割して調べた人も、頭がすっかり旧来の観念に染まっていたため、実際の内臓や骨格の構造と、それまでの説とが相違しているのを眼で見ながらも、その事実を信じきれずにいたこと、それゆえ、自分の中の古いものを捨てて面目を一新した者でなければ、新しい医学の世界に踏みこむことは出来ないということが書かれている。
第二は、オランダ語の医書を江戸の医者が集まって翻訳したことである。
『菌学事始』によれば、良沢はそれまでオランダ語の本を読みたいとの志はもっていたが、同志がなくてまだ踏み切れなかった。
したがって、江戸において志を同じくする人々が集まって行われた『解体新書』の翻訳事業は、多くの菌学者がそこから育つ機会を作り、その後の蘭学、ヨーロッパ医学の発展に大きく寄与することとなった。
第三は、玄白が『解体新書』の翻訳の目的を、古来の説との相違を明らかにし、治療を助け、また、世の医者が種々の医術を発明する際に役立てたいという社会への寄与に置いていたことである。
したがって、翻訳を急いで早く一般に見られるものにしたいというのが玄白の願いであった。この点で翻訳の正確さを重視した良沢とは異なっていたが、『解体新書』は両者がうまく助け合った結果として刊行されたのである。
玄白のこのような考え方は当時の医術が何々流と称し、それぞれの持つ医術を秘伝としてごく限られた人々にのみ伝えていく、という考え方とも異なったものであった。
さらに、玄白には、日本人ばかりでなく中国の人にも役立ちたいという気持ちがあった。『解体新書』は、当峙の教育のある日本人が読んでいた漢文で書かれており、実際に中国で読まれたかどうかは分からないが、この翻訳で、オランダ語から新たに作られた「神経」などの漢語は、現在日本でも中国でも使れている。
真埋の下での世界共通の医術の向上を考えていたことが感じられる。
八十歳を越えた玄白が過去を振り返りつつ記した『蘭学事始』の終わりに、『解体新書』の翻訳を一滴の油を広い池に垂らした様にたとえ、蘭学が四方に行き渡り、年々翻訳書も出るようになったことに深い喜ぴを表し、それを国内の大平のおかげと記している。