二月二十三日に始まった脳死にまつわる一連の出来事、そして二十五日夜からの報道は、多くの人々の関心を集めたと同時に、少なからぬ人々のひんしゅくを買った。
理由は、一言でいえば、世を挙げての過熱ぶりということであろうか。この種の報道は今日、する側も受ける側も、まるで事件を扱っているようである。あるいはドラマやプロ・スポーツを見るのとなんら変わりがない。
しかし、医療の間題はそうしたたぐいのものとは、やや違う本質をもっているはずである。
医師の仕事は本来、人に見せるために行われるものでもなければ、楽しませるためのものでもなく、すべてを世に示さなくてはならないほど公的なものでもない。ましてや患者の立場になれば、たとえ人道的に称賛ざれるべき事柄であろうとも、徴に入り細をうがってせんさくされるなど、もってのほかであろう。
脳死体からの臓器移植は、当然ながら、一人の人間の死によって始まる。
何十年かにわたって、いろいろな経験をし、いろいろと考えることもあったであろう一つの生涯が、まさにその最終段階としての死を迎えようとしている時、たとえ意識はなくとも本人には多くの思いがあろうし、周囲にいる家族や友人にも様々の感慨があることだろう。
そこにはだれもが侵してはならない静けさが求められているはずである。
「脳死状態」「臨床的脳死」「法的脳死」など、もっばら自然科学の立場から病気を、死を、ひいては生命というものを追ってきた私にとっては、必ずしも理解できないような言葉がはんらんしているが、脳死の判定とは、とりもなおざず、臨終を告げることにほかならない。その瞬間を前に、遣体から提供されるであろう臓器について、かくもかまびすしく騒ぎ立てるのは、あたかも臨終を迎えようとするまくら元で、遺産の金額や分け方を、親でも兄弟でもない人たちが、ひそひそ声でもなく、鳴り物入りで、囃し立てているようなものである。